LOGIN飲みすぎた。
酒を飲むと肌が乾燥したり、ビタミンが不足したりして、肌トラブルや老化につながる。だから、普段は肌のことを考えて、飲みすぎないように気をつけている。
それなのに、今日はついつい飲みすぎてしまった。直哉との婚約解消、それに加えて花音からの結婚式でのスピーチの依頼。それらは澪の怒りを大きく掻き立てた。澪から幸せな結婚を奪ったあげく、結婚式でスピーチをしろというのだ。恥をさらせと言っているようなものだった。
さらに、仁との再会も澪に大きな打撃を与えた。仁はすっかり大人になり、誰もが振り返るほどの美青年になっていた。少年のころの面影も少し残っている。けれど、仁は澪のことをすっかり忘れているようだった。それが大きく胸をえぐった。
「……はあ」
洗面台に両手をついて鏡を覗き込んだ。鏡には、どんよりした表情の澪が映っている。目の下にはくまができ、肌はガサガサ。肌の手入れだけは欠かさなかった澪の顔とは到底思えないほどひどかった。
よろめきながらトイレを出て壁に手をついて俯いた。
あの席に戻りたくない。
戻ったら、きっと同僚が仁に対して澪の噂話を漏らすかもしれない。
澪は胸元をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫?」
急に声をかけられ、顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。
目の前の男は、脂ぎった髪が額に貼りつき、シャツの襟元はボタンが二つ外れていて、赤く上気した肌がのぞいていた。酒に酔って顔は真っ赤に染まり、口元には不快な笑みを浮かべている。視線は彼女の顔にまとわりつくように上下をなめるように這い、最後には胸元で止まった。
「顔色、悪いけど……。飲みすぎちゃったのかな」
男は口角を上げてニヤリと笑った。その表情に背筋が凍る。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
足を一歩踏み出した途端、ぐらりと体が傾いた。足元がふらついて、うまく歩けない。
「おっと」
男が澪の右の手首を掴んだ。おかげで転ばずに済んだ。
「……ありがとうございます」
「ほらー。君、随分酔っ払ってるじゃん」
「いえ……そんなことは……」
澪は男の手から逃れようとしたが、男は掴む力をさらに強めた。そして、澪に体を寄せて耳元で囁く。
「ねえ、君ひとり? こんなに酔っ払ってたら危ないから、俺が家まで送ってあげるよ」
低い声が吐息とともに耳元に注がれた。澪はその手を振り解こうとするが、男はびくともしない。
「やめてください!」
「なんなら、ホテルにでも行く? こんな様子じゃ家まで帰れないよな」
指先で頬を撫でられると、背筋に寒気が走る。肩を上げて、首をすぼめた。さらに男は澪の顎を掴んで顔を上に向けた。獲物を捕まえた獣のように、その瞳はギラギラと輝いていた。
「なあ、いいじゃん。君、美人だし俺の好みなんだよね。スタイルもいいしさ」
ドンと壁に押し付けられて身動きが取れない。男の顔が徐々に近づいてくる。顔を背けたくても、顎をがっちり掴まれていて動きが取れない。
嫌だ。なんでこんな人にキスされないといけないの。しかも、こんな場所で……。
逃げなきゃ、と頭ではわかっているのに、酔いのせいで手足に力が入らない。振り払おうとした腕は宙をかくばかりで、声すら思うように出てこない。指先が冷たくなって、視界の端がじんわりと歪む。
「やめて! 離して!」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど掠れていた。体を捩り、男の手から抜け出そうとするが、男はびくともしない。
男のアルコール臭のする息が澪の鼻を掠める。その匂いに吐き気がしそうだった。
唇が触れそうになった瞬間、「おい!」と男の後ろから声がした。その声はとても低く、地を這うような怒気を含んでいた。
男が振り返って言った。
「ああ? なんだ、てめえ。今、いいところなのわかんねえの?」
「嫌がっているように見えますが、違いますか?」
仁の声だった。けれど、さっき懇親会で女性社員に向けていた軽やかな調子は、微塵もなかった。氷のように静かで、それでいて底に激しいものを押し殺したような声だった。
「邪魔すんな!」
男は澪から手を離すと、声をかけてきた仁に殴りかかった。澪はようやく自由になり息をついた。けれど、体の震えは止まらない。
助かった……。
まだ体の震えが止まらない。澪は自分の体を両腕でかき抱いた。
目を向けるとそこに仁が立っていた。殴りかかってくる相手を素早くかわし、男の腹に拳を突き立てた。男は「ぐはっ!」と腹を抱えながら、よろめいた。
「っざけんな!」
男は言葉を吐き捨て、その場から去っていった。
仁は振り向き、澪に向かって近づいた。そして震える澪をやさしく抱き寄せ、耳元に顔を寄せた。
「相変わらず、警戒心がないんだな。昔と全然変わってないな」
その声は、もう普段の仁に戻っていた。低く張り詰めていた気配はすっかり溶けて、やわらかく澪を包み込む。さっきの男に向けた声と、今の声は違いすぎた。同じ人のものとは思えないほどの落差に、澪の頭は追いつかない。
「……え?」
するとそのとき、仁を追いかけてきた澪の同僚たちが驚きの声をあげた。
「え? なんで高宮さんが朝倉さんにそんな親しげに話しかけてるの?」
「きっと聞き間違いでしょ? 朝倉さんが、高宮さんみたいに会社を経営しているエリートと知り合いなわけないじゃん!」
「そうよ! ただの会社員に振られるぐらいなんだから。そんなことありえない」
仁は、ふ、と小さく笑った。そして、澪の脇と膝の裏に手を入れ、ふわりと横抱きにした。
「きゃあっ!」
「首に手を回して、しっかり捕まってて」
澪は仁に言われるまま、首に腕を回してぎゅっとしがみついた。仁の首筋から、ウッディな香水の香りが鼻をくすぐる。
仁は澪を横抱きにしたまま出口へ向かった。
さっきまでざわめいていた店内が、嘘みたいにしんと静まり返る。澪の同僚もダーマコードの社員も、みな手を止め、言葉を失ったままふたりを見つめていた。澪と仁へ交互に目を向け、信じられないという様子で目を見開いている。
誰も、ひと言も発しない。ただ、ふたりが通り過ぎるのを、呆然と見送るだけだった。
仁の視線はその場にいる全員の顔を順に流し見たあと、澪の上司に止まり、わずかにうなずいた。
「今後の協力については、また改めて日を設けましょう。」
そう言い残すと、仁は澪を抱えたまま夜の闇へと歩き出した。
その背後には、死のような静寂だけが残り、そして口に出す前に飲み込まれた無数の「どういうことだ」という疑問だけが漂っていた。
仁の言葉の後、三人の間にしんと沈黙が訪れた。喧騒が遠のいていく。 有村は口角を上げて、ニヤリと笑った。「へえ……。そんな感じですか」 澪が有村に目を向けると、有村は笑ったまま、視線だけを仁に向けていた。 なんだ、この一触即発状態は……。仁は、今にも噛みつきそうな顔だ。「と、とりあえず、もう遅いですし、帰りましょう? ここにいては迷惑になりますし」 澪はふたりに向かって声をかけた。駅前で見目のよい男同士がにらみ合っているからか、遠巻きに女性が集まってきた。「あれって、なんていう会社だったっけ? 社長だよね」なんて声も耳に届いた。 そうだった。仁はビジネス誌だけでなく、ファッション誌にも顔出ししている。目鼻立ちの整った顔立ちなのだから、世の女性が放っておくはずがない。「あの背の高い人、モデルかな? めっちゃかっこいいんだけど」 一方の有村も負けていない。すらっと背が高い。切れ長の目は冷たそうに見えるが、ほかの顔のパーツとの相性なのか、やけにやさしく見える。 とにかく、このふたりは黙っていても、人目を引くのだ。「ああ、そうだな。澪の言うとおりだ。送っていくよ。澪、行こうか」 仁がすっと手を澪の腰に回した。まるで恋人のように。「じ、……高宮社長?」 澪は逃れようとしたが、ガッチリと回された腕は、澪の力では剥がすことができなかった。 仁が歩き出そうとしたとき、澪は有村に腕を掴まれた。「……え?」「僕が朝倉さんを誘ったので、僕が送って帰ります」 その言葉に仁は目を細めた。まるで氷のビームでも出てくるのではないかと思うほど、まとう空気が冷たい。「ご配慮、感謝します。俺、車で来てるんで、俺が送ります」 そう言うと、仁はさらに澪の腰を自分へと引き寄せた。 ――ちょっと、一体どうなってるの? 気づけば、澪は
仁がなにか言うより先に、有村が「決まりですね!」と手を叩いてしまった。そのせいで、あの場では「業務ですので」としか答えられなかった。 翌日、有村とともに市場リサーチに向かった。待ち合わせの駅に行くと、すでに有村の姿があった。「朝倉さん!」 有村は手を高く挙げ、ぶんぶんと振っている。そんなことをしなくても、背が高い有村は遠くからでも十分見えるのに。 まるで大型犬が尻尾を振っているような姿を見て、澪は思わず口元をほころばせた。「お待たせしました」「ぜんぜん、待ってませんよ。あ、荷物持ちますよ」 澪の肩から下がっているバッグに、有村はすっと手を伸ばした。別に重たいわけでもない。「いえ、大丈夫です! そんなに重いものでもないですし」 澪が断ると、有村は眉を下げた。「そうですか……。当たり前のことをしたんですけど、迷惑でしたか?」「いえ、そういう意味では……」 迷惑というより、外国の紳士のような態度に戸惑っただけだ。「さあ、行きましょう!」 有村は気を取り直したように、声を張り上げた。 やけに張り切っているように見える。 ――まあ、楽しく仕事をしてくれるのなら、いいか。 澪は先導する有村についていった。「今日は、百貨店やスーパー、ドラッグストア、セレクトショップなどを、できるだけ回りたいんです」 有村はスマホのマップアプリを開いて言った。「そんなに回るんですか?」「はい。たくさん見たほうがイメージしやすいですから。Onlyé for youのデザインに似たものがあれば、参考にしたいと思っています」「そうなんですね」 上司は有村のことを「ちょっと軽い」と呆れていたが、そんなことはなさそうだ。仕事はしっかりこなすようで、内心ほっとした。 有村のスマホを見ると、マップにたくさんピン留めしてある。今日、
「あなたに会いたくて、この仕事、受けたんです」 まったく、理解できない。 今、会議室に入ってきたクリエイティブディレクターは、澪の目の前に立っている。いま、なんと言った? 「あなたに会いたくて」と言わなかったか。「え……っと」 澪は固まったままで、そう言うのがやっとだった。 しばらく目の前の有村を見つめているうちに、澪はようやく我に返った。ざわざわと会議室でプロジェクトメンバーがささやいているのが耳に届いた。「なに? 朝倉さん目当てってこと?」「っていうか、朝倉さんって、付き合ってる人いるんじゃなかったっけ? ほら、ダーマコードの……」「違う違う、あれはデマだったでしょ?」 上司が咳払いをした。大きな音に、澪の体がビクッと震えた。「有村さん、まずはご着席ください。今後のことについてお話しできればと思います」「ああ、すみません! 僕、前のめりすぎましたね」 有村は澪ににっこりとほほえみ、向かいの席に座った。なんともマイペースな人だ。「皆さん、改めてご紹介します。こちら、今回のプロジェクトに入っていただく、クリエイティブディレクターの有村さんです」 上司が向かいに座る有村を紹介した。有村はガタッと椅子を鳴らしながら立ち上がった。「改めまして、有村です。今回のプロジェクト『Onlyé for you』のクリエイティブディレクターに就任いたしました。ホームページと広告をメインに作業させていただきます」 丁寧にお辞儀をするところを見ると、社会人としては問題ないようだ。有村は、すっと椅子に座った。背筋を伸ばし、姿勢がいい。「弊社で本プロジェクトの指揮を執っているのは、朝倉です。今後、彼女と話すことが多くなると思いますのでよろしくお願いします」 上司が澪を紹介したので、澪はその場に立ち上がった。「朝倉です。どうぞよろしくお願いします」 頭を下げてからゆっくり上げると、有村は口元をほころばせた
千華とカフェで会ってから、ずっとあの言葉が頭を離れない。「あなたは、彼のなんなんですか?」 まっすぐ届いた言葉は、澪の胸を大きくえぐった。 ――あたしは……。 仁の幼なじみだ。それは間違いない。 仁の会社の取引先だ。それも間違いない。 仁に告白された相手。仁と一度だけ関係を持った相手。告白を保留したままの相手。仁のことが好きなのに、それを言えずにいる相手。 どれも当てはまるのに、どれも当てはまらない気がする。 どれかひとつを選んで名乗れるような、そんな名前が、ふたりの関係にはなかった。 この一週間、千華の言葉が頭のなかをぐるぐると巡っていて、仕事にも集中できなかった。「はあ……」 がっくりとうなだれて、ため息をつく。 本当に仕事が進まない。これではだめだとわかっているのに、体が動かない。「どうしちゃったのよ、澪ちゃん」 奈央に声をかけられて、ゆるゆると頭を上げた。「奈央さん……」「どうしちゃったの、その顔」「……え?」 そんなにひどい顔をしているだろうか。澪はぺたぺたと自分の頬に手を触れた。「澪ちゃん、鏡見てないの? くま、すごいよ」「そんなに!」 言われてみれば、ここ数日、夜に肌になにをつけたのか思い出せない。化粧水をはたいた記憶も、オイルの手ざわりも、どこにもなかった。手入れを飛ばすなんて、今までしたことがなかったのに。 自分が情けなくなって、眉が下がる。「なんか……ありえないです……」 よほどひどい顔をしていたのだろう。奈央が慌てて澪の肩に手を置いた。「ちょっと、澪ちゃん。もしかして、悩みごと?」「…………」
千華は週末の土曜日の昼どきを指定してきた。ダーマコードとの交渉があるため、平日は忙しいのだろう。それだけでなく、ほかにも業務があるかもしれない。 澪も、平日でなくてよかったと思っていた。平日に千華とプライベートで会えば、仕事に支障が出るに決まっている。もし仁のことを話さなければならないとなれば、なおさらだ。 とにかく、会う約束をしたのだ。どんな話をされるにせよ、腹をくくって向かうしかない。 澪は、千華からもらったメッセージをじっと見つめた。 あのカフェを思い出す。麗奈に呼び出され、伝票を置かれた、あの午後。 ――今度は、なにを言われるんだろう。 土曜日、千華が指定したカフェへ向かった。 木でできたコテージのような外観だった。店の前には大小の素焼きの植木鉢が置かれ、季節の花々が咲き誇っていた。店の脇にはローリエの木がすっと立ち、ミモザの葉が入り口に影を落としている。「かわいいお店」 思わずそんな言葉がこぼれた。ドアを押すと、カランコロンとドアベルが鳴る。 待ち合わせの十分前だったので、まだ来ていないだろうと思っていた。けれど、千華はすでに店内にいた。背筋を伸ばし、本を読んでいる。花柄のワンピースがよく似合っていた。真っ黒な髪にダウンライトが反射して、つやつやと光っている。「九条さん、お待たせしました」 声をかけると、千華は本からゆっくりと目を上げた。「朝倉さん。ごめんなさい、気づかなくて」 パタンと閉じた表紙には、英語で「Cosmetic」という単語が並んでいた。論文か専門書だろうか。休みの日にまで、と思う。「どうぞ、座ってください」 差し出した手は指先までまっすぐ伸びていて、所作が美しい。やっぱりお嬢さまなのだと、改めて思い知らされる。「失礼します」 向かいに腰をおろしたが、居心地が悪くてもじもじしてしまう。「お名刺の番号にご連絡してしまって、すみません」「いえ、そんな」「お食事は? ここはハンバーグ
業界内の噂というのは、あっという間に広がるものだ。 次の日には、グロウセオリー内でも「ダーマコードの高宮仁と胡蝶堂の九条千華が婚約する」という噂が尾ひれをつけ、大きくなっていた。「高宮社長、婚約するんだってね」 給湯室から漏れる声に、澪は思わず足を止めた。別に聞きたいわけではないのに、勝手に耳に入ってくる。「胡蝶堂のご令嬢だって! 今いちばん勢いのある会社と、老舗コスメメーカーだもん。知らない人なんていないよね」「資本業務提携だけじゃなくて、結びつきまで強くするなんて、今どきすごいよね」 確かに、家と家の結びつきで結婚をするというのは珍しく聞こえる。けれど、両者の目的が一致すれば、そういうこともあるのだろう。 だったら、仁は。 訊けばいい。澪と仁は幼なじみだ。それぐらい訊ける関係のはずだ。 けれど、どんな顔をして、なんと言えばいい? 澪は唇を噛みしめて、その場を後にした。 背中で、まだ声が続いていた。「でもさ、こういうのって普通、断らないよね。会社のためだもん」 家に帰ってからも、何度も同僚の声が頭のなかにこだました。 スマホを取り出し、仁とのメッセージ画面を開く。 訊きたい。 あれ、本当なの? たったひとことじゃないか。それなのに、指がうまく動かない。 キーボードの上で指が止まったまま、時間だけが過ぎていく。 澪は仁にとって、なにものでもない。ただの幼なじみで、取引先だ。その関係で、個人的なことに踏み込む権利があるだろうか。 ――そう。権利。 自分の頭に浮かんだ言葉に、澪はうつむいた。 仁は好きだと言ってくれた。あれは紛れもなく本当だと思っている。 でも、好きなのと、結婚するのは別の話だ。好きだとは言われたが、結婚してほしいとは言われていない。 そもそも澪は、告白されておきながら、返事すらしていない。仁が澪に見切りをつけて結婚相手を探したとしても、責め







